水戸黄門は本当に諸国を漫遊したのか?

水戸黄門こと徳川光圀(御三家のひとつ水戸藩の2代藩主。徳川家康の11男、頼房の3男に生まれる)は実在の人物だが、果たして本当に諸国を漫遊したのだろうか?
光圀が隠居したのは元禄4年(1691年)、64歳の時。
その後、元禄5年に摂津(現在の大阪と兵庫の境)の湊川の楠木正成の碑を建てたりした後、元禄13年に73歳で亡くなっている。
光圀が諸国を漫遊したとすれば、この湊川に出掛けた元禄5年頃の事と考えられるが、時間的、体力的にもその行動範囲は極めて限られたものと言っていい。
実際には光圀は諸国漫遊の旅はしていないよう。
ただ、西山荘に近い久昌寺に、諸国を巡歴する虚無僧や山伏が泊まった時、光圀は好んで彼らが見聞きした情報を聞いたという事実はあったよう。
光圀が最も長旅をしたのは、まだ隠居をする前に、神奈川の藤沢から江ノ島、日光、勿来関、八溝山、銚子、勝山などを歩いたという記録もある。
藩主時代に領内をめぐったことから名君伝説が生まれ、それに修史事業にくわわった学者たちが史料採集のため諸国を旅したことが加味され、幕末~明治初年、講談師らの手でいわゆる水戸黄門漫遊記がつくりあげられたようだ。
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